短編小説|君におやすみを
- るび 星乃
- 2024年1月15日
- 読了時間: 5分
ねむい。
日頃から考えるのは、そのことばかり。
昔はもっと活発だったという記憶が……あると言えば嘘になる。
こんな小さな脳みそに保存できる記憶なんてたかが知れている。
そんなことを思いながら、僕は大きな欠伸をする。
リビングの窓の外には、白い世界が広がっている。いつもだったら、緑色の芝生や木が並んでいたはずなのに、今日はそのどれもが真っ白に染まっていた。
あの白い物の正体を僕は知らない。もしかしたら知っていたかもしれないけれど、今ではもう忘れている。
しかし、この時期になると途端に世界が寒くなることは、よく覚えていた。
そして、この時期になるといつも決まった場所に出される、温かい空気を出してくれる四角い物のことも、僕は覚えていた。
その四角い物が出されている場所の前が、僕のお気に入りの場所である。
そこに敷かれている柔らかい何かの上に乗って、丸くなって寝る。それが僕の日常だった。
最近は何をするにもすごく疲れる。
おしっこをしたい。そう思ってトイレに向かおうとするが、体が重くて持ち上がらず、結局その場でおしっこを漏らしてしまう。
あそこに行きたい。そう思っても足が思うように動かず、少し移動するだけでも一苦労だ。
お腹が空くことも無くなってきた。あれだけ毎日楽しみにしていたはずのご飯も、今では全くのどを通らなくなっていた。
「ただいまー」
どこかからそんな声が響いてきた。
ほとんど毎日聞こえてくるその声の正体を僕は知っていた。
この家に住んでいる小さな女の子だ。
彼女のことは何となく覚えている。昔はよく一緒に遊んだり、ねむったりしていた。気がする。
思い出される記憶は、その全てが断片的なもので、詳しくは思い出すことができない。 しかし、その記憶を思い出すたびに、僕はなんだか元気が出てきて、「また彼女と遊びたい」と思ってしまう。
けれど、体がそれを許してくれない。いくら思っても、願っても、僕の重い体は岩のように動かない。
「ただいま、コハク。……随分、痩せたね」
僕の前にやってきた彼女は、なぜだか悲しそうな目をしながらそう言った。
コハク。
それは僕の名前だ。
僕はその言葉を今まで何回聞いてきたか分からない。
僕の脳に最も根強く残っている記憶の一つが、その言葉だった。
彼女の呼びかけに反応して、僕は少し顔を上げた。
それと同時に、首輪についていた鈴が、弱弱しく音を立てた。
「ねぇ、お母さん。コハクもう死んじゃうの?」
「……そうね。いつになるかは分からないけど、もう長くはないでしょうね……」
目の前の彼女とどこかにいるのであろうご主人が何かを話していた。
話の内容を耳に入れるが、会話の内容は僕には全く分からない。
退屈になり、僕は再び大きく欠伸をする。
それを見た彼女が、僕の頭を優しくなでると、心地の良い声が耳に響いた。
「おやすみなさい。コハク」
「……にゃーお」
その言葉に答えるように鳴いて、僕は眠りについた。
* * *
寒い時期が終わった。
リビングの窓からは、緑色の世界が広がっている。
この時期はとても好きだ。
少し前までは寒い日々が続いていたが、この時期になると何ともちょうど良い温かさに包まれるからだ。
だから今回もその温かさの中で気持ちよく眠れると思っていた。
だけど、なぜだか今回はあまり温かさを感じることはなかった。
数日前まで四角い物が置かれていた場所には、何も置いておらず、代わりに僕の隣には女の子が座っていて、僕のことを優しくなでてくれていた。
彼女の小さな手はぷにぷにしていて、僕はこの手でなでられるのがすごく好きだった。
今日はなんでか、昔の記憶が鮮明に、次々に頭の中を巡っていた。
男の方のご主人に拾われた時。最初は僕のことを避けていた女の方のご主人が甘い声を発しながら僕をクシャクシャになでてきた時は、本当に驚いたし、同時にとても嬉しかった。
そして、女の子との出会いの時も。
ちょうど、今日のような温かい日のことだった。
当時の彼女は、僕と同じくらいの大きさで、僕と同じように両手両足を使って移動していたので、とても親近感が湧いていた。
それから彼女はみるみる成長して、いつの間にか僕のことを見下ろすまでに大きくなっていた。
そして、そんな彼女と僕は数えきれないほどの思い出を残していた。
時にはおもちゃを使って遊んで。
時にはおもちゃを使わずに、追いかけっこをして遊んで。
時には彼女に甘えに行き、それに応えてくれるように彼女が僕を時に優しく、時に激しくなでてくれて。
時には同じ場所で眠って。
思い出される記憶のどれも懐かしく、とても楽しいものだった。
そんな思い出に浸っていると、突如、急激な眠気に襲われた。
瞼がずっしりと重い。
続きの思い出は、夢の中でじっくり味わうとしよう。
僕が目を閉じて眠りに着こうとすると、僕をなでる小さな手が、小刻みに震えているのが分かった。
どうしたのかと思い、僕は隣に座っている彼女に顔を向けた。
するとそこには、涙を流しながら僕のことを見つめる彼女の姿があった。
なんで?
どうしてそんな悲しそうな顔をしてるの?
僕が眠っちゃうことが悲しいの?
大丈夫。起きたらまた遊ぼうよ。君が悲しむ顔は見たくないよ。
いよいよ眠気が我慢できなくなり、僕はゆっくりと目を閉じていく。
かすれていく視界の中で、彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を笑顔にしてこう言った。
「おやすみなさい、コハク。大好きだよ」
「……にゃー、お」
おやすみなさい。
僕はそう言って、眠りについた。
首輪についていた鈴が、音を鳴らすことはなかった。
~END~
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